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某IT企業の経営者である友人の「閑話休題」,今日は、『ケネディ大統領が尊敬した日本の政治家 上杉鷹山』です。⇒ And so my fellow Americans, Ask not what your country can do for you. Ask what you can do for your country.

「それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。」これは、1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節です。

○○○という、△△△△会社の社長である、□□氏(私の高校時代の同級生)と食事をしたとき、『AA君、ケネディ大統領と上杉鷹山の関係を知っているか?」「大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団から「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」と聞かれたとき、ケネディは「上杉鷹山(ようざん)です」と答えているのだよ。」という話を聞きました。

彼の説明が終わったあとで、「Webを調べるといろいろな人がこの話しを紹介しているよ」と教えてくれました。
以下URLにかなり整理がなされた記事を見つけました。
今日はこの記事を引用してお話します。
http://archiwood.fc2web.com/sei/youzan.html

『鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物である。』、『上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。

上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。

収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。

年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両と2年分近くに達し、深刻な財政破綻におちいっていた。』、『藩主とは、藩と人民を私有するものではなく、「民の父母」として尽くす使命がある、と鷹山は考え、鷹山は根本方針を「三助」とした。

すなわち、①自ら助ける「自助」、②近隣社会が互いに助け合う「互助」、③藩政府が手を貸す「扶助」である。』、『「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励した。

漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。
楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。
桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。』『鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。

武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。

家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。』、『「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。

特に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めた。貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。

そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。

これも「自助」の一つである。』『藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。
天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。
翌3年も同じような天候が続いた。
米作は平年の2割程度に落ち込んだ。

鷹山が陣頭指揮をとり、藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせ、酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止し、鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。』『鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。

しかし、とてもそれだけの資金はない。そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募った。

武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。

また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。

子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。』

イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

「南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように美しい。

米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。」

米国は、歴史上の偉人の伝記が教材として好まれています。おそらく、ケネディは、イザベラ・バードの日本印象記を読み、その後上杉鷹山の伝記にたどり着いたものと考えられます。

もしくは、明治期のキリスト教者に、内村鑑三という人がいますが、彼は明治41年に英文著作「Representative men of Japan」(邦題:「代表的日本人」)を著しています。Menは、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮上人の5名です。ケネディはこの本で上杉鷹山を知ったのかもしれません。

ケネディの演説は、「国民がみな国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助と互助の精神が不可欠である。

それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。」と訴えています。

ケネディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからであろうと思われます。

私は、□□君の話を聞くうちに、上杉鷹山の存在を少しずつ思い出しました。

偉人先人に学ぶことは大変貴重だと思います。

【自然人のコメント】
偉人先人に学ぶ事は、いつの時代でも大切なことです。自分が成長する大きな糧となりますが、皆様は如何でしたか?

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2012/04/01(日) 20:53 | | #[ 編集]
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