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某IT企業の経営者である友人の「中国旅行記」、第2回目は桂林です。

13日は、桂林で、『漓江下り』『象鼻山』『七星公園』を観光しました。 『漓江下り』では、遊覧船に乗って、桂林~陽朔間83キロをのんびりと下りました。
川の両側に林立する奇峰を縫うよう下り、青い川面に緑の山が美しく映っていました。サントリーがウーロン茶の宣伝で使っているという奇峰群、人民元の20元札の裏に使われている奇峰群など、まさに「奇山秀水」と言われる絶景の連続でした。

夜は、「龍脊秀」少数民族ショーを観劇しました。桂林は、広西チワン族自治区にあり、4大少数民族と言われている「トン、ヤオ、マオ、チワン族」の自治区のある所です。風俗・習慣・表現・服装など、(南)蛮族として中国古代から恐れられた民族の誇らしげなショーを見ることができました。

14日は、桂林から西安に移動し、西安咸陽国際空港に13時過ぎに到着しました。

空港でガイドの賈さんと落合い市内に向かいましたが、車が走り出してからしばらく行くと渭水(渭河)に架かる橋を渡ります。秦代末期の劉邦と項羽の覇権争い、漢代末期の曹操、劉備、孫権の覇権争いでたびたび登場する川です。 西安市は、「関中に先に到着したほうが覇者になる」ことを劉邦と項羽が約束した関中平原の街です。

西安の東には、鴻門の町があります、有名な「鴻門の会」は、項羽が笵増の策を入れて、劉邦を招待し、宴席で項荘が剣舞しながら劉邦の命を狙い、結局、張良の機転によって劉邦は逃げ出し一命を取り留めた場所です。

西安の西に位置する秦嶺山脈には、近年はパンダの生息地として有名になりましたが、三国志において、蜀の諸葛孔明が活躍する漢中や、蜀の諸葛孔明と魏の司馬仲達が最後の戦いを行い、結局諸葛孔明が病に倒れ「死せる孔明、生ける孟徳(仲達)を走らす」という名句を生んだ地である五丈原があります。

こんな歴史が頭に浮かび「やっときたぞ!中国へ」との実感が湧き出しました。ここら辺から私の心臓の鼓動が高まり興奮状態が始まります。

西安初日は、市内の『碑林』と『大慈恩寺と大雁塔』を観光しました。

西安『碑林』は昔の孔子廟を基礎として11世紀初頭に建てられました。門を入ってすぐに、6m位の高さの石碑がありますが、これは唐の玄宗皇帝の自筆のもので、ガイドの賈さんが指差すところに「身体髪膚これを父母に受く」という言葉があります。さすが孔子の教えが色濃く、皇帝といえども、今あることは父母のお陰ということです。 

次に、『大慈恩寺と大雁塔』を観光しました。『大慈恩寺』は648年、唐の第三代皇帝高宗が、亡くなった母文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺です。シルクロードを通ってインドで仏教の教えを受けた玄奘(三蔵法師)は、莫大な量の経典と仏像を長安に持ち帰りましたが、この寺の境内に塔を建立して、仏像と経典を保存したいと高宗に願いでて叶えられ、インドの塔婆を真似て、五層の塔が建てられました。これが『大雁塔』です。これは652年のことだそうです。 

塔が竣工してから、玄奘の持ち返った仏像などがその中に安置され、そして、玄奘は慈恩寺を翻訳経院とし、経典の翻訳を約11年間かけて行ったそうです。

『大慈恩寺と大雁塔』は、文化大革命のときに紅衛兵が押しかけ、破壊の危機に立ちます。僧侶たちは恐れて逃亡しましたが、当時の管長の普慈師が門前に仁王立ちで、「慈恩寺に踏み入るならば私を殺してから行け」と一括し続け、被災しないで済んだという話があります。

私事ですが、寺の一角に玄奘が使っていたという建屋があり、そこで前管長普慈師直筆の掛け軸が特別展示されていました。販売もしており売上は『慈恩寺』修復(『大雁塔』は過去7回の地震で斜めに傾いていて、西安の斜塔になっている)に使われるということです。 掛け軸の一つに「夢」と一文字書かれたものがあり、私もワイフも買いたいけれどもどうしたものかと迷いに迷った挙句に、ホテルに帰ってから買うことを決意し、お寺に電話してその日のうちに届けてもらいました。(我が家のオス猫の名前は夢馬呂です)。

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